アスリートのセカンドキャリアはなぜ失敗するのか:引退後支援とキャリア支援で防ぐ5つの落とし穴
多くのアスリートは20代から30代という若さで競技生活を終えます。しかし、その後の人生は数十年にわたって続くにもかかわらず、セカンドキャリアの準備が十分でないまま引退を迎えるケースが少なくありません。準備不足のまま社会に出ると、ビジネススキルの壁や心理的な苦しさに直面し、キャリアのつまずきにつながります。
こうした失敗には共通するパターンがあり、引退後支援やキャリア支援の仕組みを知っておくことで多くは回避できます。本記事では、セカンドキャリアでつまずきやすい5つの落とし穴と、その根本にあるアイデンティティの問題、そして具体的な支援制度や対策を順に解説していきます。
引退後の現実と背景
競技一筋がもたらす社会とのギャップ
アスリートの引退は、一般的な転職とは性質が大きく異なります。多くの場合、20代から30代のうちに競技を離れ、まったく新しいキャリアをゼロから築かなければなりません。長年にわたる集中的なトレーニングは、競技以外のキャリアスキルを身につける機会をほとんど残さないため、他の職業に必要な能力を持たないまま競技生活を終えることになります(※1)。
こうした競技一筋の生活は、本人が振り返って初めて気づくことも多いです。ある元アスリートは、現役中はセカンドキャリアについて意識することがなかなかできなかったと語っています(※2)。競技への没頭が深いほど、引退後に社会との接点を一から作り直す必要が生まれ、そのギャップは本人の想像以上に大きくなります。
アスリート特有の心理的リスク
引退後の課題はスキル面だけではありません。心理面でも深刻なリスクが存在します。エリートアスリートの引退後を対象とした包括的なメタ分析では、引退したアスリートの4分の1以上が不安や抑うつの症状を経験していることが示されています。この傾向は国やスポーツの種目を問わず広く確認されました(※1)。
さらに、社会的なサポートの欠如や身体的な持病の存在が、引退後の心理的苦痛のリスクを大きく高めることも指摘されています(※1)。競技を離れた途端に、チームメイトやスタッフとの日常的なつながりが失われ、孤立感が深まりやすい構造があります。引退後支援を考えるうえでは、スキルの獲得だけでなく、こうした心理面のケアを並行して行う視点が欠かせません。
セカンドキャリア5つの落とし穴
落とし穴1:ビジネススキルの欠如
引退後に一般企業へ転職したとき、最初の壁になりやすいのが基本的なビジネススキルの不足です。ある元サッカー選手は、引退後に企業へ転職したものの、基本的なビジネスマナーやPCスキルの不足に悩まされました。チームスポーツでは培えない「ビジネス特有のコミュニケーション」に戸惑い、周囲との摩擦を生む場面もあったといいます。専門用語や暗黙のルールを知らないことで、実力以上に評価が低くなってしまうケースも報告されています(※3)。
競技の世界で高い成果を出してきたアスリートでも、社会人としての基本的な作法を知らなければ、職場でその能力を発揮する前につまずいてしまいます。能力の有無と、職場での評価は別の軸で動いているという現実を、引退前に知っておくことがポイントです。
落とし穴2:安易な起業・投資
セカンドキャリアでは、起業や投資を選択肢として考えるアスリートもいます。しかし、十分な金融知識がないまま大きな判断をすると、引退後の生活設計に大きな影響を及ぼす可能性があります。元大学アスリートを対象にした調査では、キャリア移行プログラムに求める内容として、予算管理、税金、車や住宅ローンなど、金融リテラシーに関する教育の必要性が挙げられていました。また、アスリートとして活動している間は日当や用具などが支給されるため、自分でお金を使う場面が限られる一方で、競技を離れるとそうした支援は受けられなくなります。(※4)。
現役中の生活環境と引退後の生活環境には大きな差があります。その差を十分に理解しないまま事業を始めたり、投資に資金を投じたりすると、収支の見通しが甘くなり、財務面での失敗につながるおそれがあります。金銭に関するリテラシーは、起業や投資をするかどうかにかかわらず、セカンドキャリアを安定させるための土台になる知識です。
落とし穴3:プライドによる学び直し拒否
競技で頂点を極めた経験が、かえって学び直しを遠ざけてしまうことがあります。幼い頃からトップアスリートとして育ってきた人にとって、「アスリート以外の自分」を見つけることは容易ではありません。「朝起きても行く場所がない」「自分は何者なのかわからなくなった」という声は、引退後のアスリートからよく聞かれます(※5)。
こうした喪失感が深いほど、「今さら新人として学び直すのか」という抵抗感が強まりやすくなります。しかし、この喪失感と正面から向き合うことが、新たな自分を発見する第一歩だとも指摘されています。周囲に助けを求めること自体が弱さではないと認識できるかどうかが、学び直しに踏み出すための分岐点になります。
落とし穴4:自己分析不足のミスマッチ
アスリートが持つ能力と、社会が期待する人物像とのあいだには、認識のずれが生まれやすいです。あるカンファレンスでは、アスリート自身から「競技力向上のためにPDCAサイクルを当たり前のように回してきたのに、自分が持つ課題解決能力の高さに気づけていない」という声が挙がりました。同時に、「気合い・やる気・体力=営業職」という固定観念が社会側にも根強く、アスリート人材の能力と企業側の認識にミスマッチが生じていることも共有されています(※6)。
自分の強みを言語化できなければ、採用面接や仕事選びの場面で適切に伝えることができません。一方、企業側もアスリートの能力を正しく評価できなければ、配属のミスマッチが起こります。双方の認識のずれを埋めるために、自己分析を丁寧に行うプロセスが不可欠です。
落とし穴5:生活設計の甘さ
競技生活から日常生活への切り替えにおいて、生活設計の見通しが甘いまま引退を迎えるケースも見逃せません。先述の元大学アスリートを対象にした調査では、キャリア移行プログラムのなかで特に求められていたのが、予算管理や税金、車や住宅のローンといった生活の基盤に直結するテーマでした(※4)。
また、カンファレンスの場では「学生から社会人にステージが上がる際に、競技を続けていくビジョンが見えない」という不安も共有されています(※6)。競技の次に来る生活を具体的に描けていないと、引退直後に収入や住居の問題が一気に押し寄せ、精神的な余裕も失われます。生活の見通しを数字で立てておくことが、セカンドキャリアの安定した第一歩につながります。
失敗の根本原因:アイデンティティ喪失
5つの落とし穴の背景には、共通する根本原因があります。それは「アスリートとしてのアイデンティティの喪失」です。近年の研究では、引退するアスリートが直面する課題の中心にはアイデンティティの変化があると認識されるようになっています。特にこの10年間、アスリートとしてのアイデンティティの喪失や変化が、引退に移行する選手の精神的健康に深い影響を及ぼすことが繰り返し示されてきました(※1)。
別の研究でも、アスリートとしてのアイデンティティの発達・危機・再構築の各段階は、精神的健康の変動と密接に結びついているとされています。けがや突然のキャリア中断が起きた場面では、抑うつや不安の症状が増加し、回避的な対処行動やアイデンティティの崩壊につながる危険性が指摘されています(※7)。
さらに、競技者としての役割に強く同一化しているアスリートほど、明確なキャリア計画を持ちにくく、引退後の移行に苦しむ傾向があることも示されています。アスリートとしてのアイデンティティが強いほど、自尊心の低下や将来への漠然とした不安と結びつきやすいことが報告されています(※4)。「自分=競技者」という一本柱の上に人生を組み立てていると、その柱が失われた瞬間にすべてが揺らぎます。引退後支援やキャリア支援が効果を発揮するには、スキルの習得だけでなく、アイデンティティの再構築という心理的なプロセスへの対応が含まれている必要があります。
日本の引退後支援制度の全体像
JOCアスナビとキャリアアカデミー
日本におけるアスリートの引退後支援として代表的な仕組みのひとつが、JOC(日本オリンピック委員会)が運営する「アスナビ」です。JOCは、アスリートが競技引退後の不安を払拭し、競技に集中して更なる競技力向上を図れるよう、現役時代から就職支援、キャリアカウンセリング、教育研修を行っています。アスナビは、就職して生活を安定させつつ競技続行を希望するアスリートと、アスリートの採用を希望する企業を引き合わせ、双方にとって有益な関係を築く就職支援制度です(※8)。
この仕組みの特徴は、引退後ではなく「現役のうちに」企業との接点を作る点にあります。競技に専念しながら社会との接続を準備できるため、引退時のギャップを小さくする効果が期待できます。就職支援だけでなくキャリアカウンセリングや教育研修が一体で提供されている点も、スキルと心理の両面をカバーする設計になっています。
スポーツ庁とSCSCの取り組み
スポーツ庁は、アスリートが安心してスポーツに専念できるよう、現役時代から引退後のキャリアについて準備するための支援を行っています(※9)。その具体的な推進母体のひとつが、スポーツキャリアサポートコンソーシアム(SCSC)です。SCSCはリーグや中央競技団体と民間企業などが連携し、一体的なデュアルキャリア形成を支援する組織で、設立当初の13団体から、2024年10月時点で121団体にまで登録数が増加しています(※10)。
2025年2月には、SCSCが「Athlete Career Challenge カンファレンス 2025」を東京で開催し、5回目となるこの年のテーマは「競技の枠を超えアスリートと共に考えるアスリートの未来」でした(※6)。競技団体と民間が協働する枠組みが広がっていることは、引退後支援の選択肢がアスリート個人の努力だけに依存しなくなりつつある兆しといえます。
落とし穴を防ぐ実践的キャリア対策
デュアルキャリアという考え方
5つの落とし穴を防ぐうえで鍵となるのが「デュアルキャリア」の考え方です。これは、競技者としてのキャリアと、一人の人間としてのキャリアを並行して育てていく発想を指します。キャリア支援の現場では、アスリートとしてのキャリアと人としてのキャリアを別個のものとして捉えている選手が非常に多いことが課題として挙げられています。競技をやりながら「人としてどうありたいのか」を考え、人としての成長点とアスリートとしての成長点を両輪で捉えることが強調されています。それを考えないと競技一辺倒になり、視野が狭くなって、いざ社会に出た時に「何もできない」と不安に陥ってしまうと指摘されています(※10)。
また、競技以外のスキルアップを考えることで将来の不安を軽減させ、選手としてのパフォーマンス向上にもつながる可能性があることが指摘されています(※6)。デュアルキャリアの実践は、引退後の備えであると同時に、現役時代の競技力にも好影響を及ぼしうるという点で、アスリート本人にとって取り組む動機が生まれやすい考え方です。
現役中から始める5つの準備
デュアルキャリアの考え方を実際の行動に落とし込むために、現役中から取り組める準備があります。競技生活と並行して基本的なビジネススキルを身につけることは、引退後のギャップを小さくする効果が見込めます。週に数時間でもPCスキルやビジネスマナーの講座を受講したり、オンライン学習で資格取得を目指すといった方法が挙げられており、実際にオフシーズンにマーケティングの勉強を始めたプロサッカー選手が、引退後スムーズに企業の広報部へ転身した事例も報告されています(※3)。
加えて、セカンドキャリアの選択肢や情報を現役中にインプットしておくことの重要性も指摘されています。アスリートは目標を達成するためなら、どんな壁でも乗り越える力が強く、さまざまな選択肢を知ることで力を発揮できる明確な目標設定ができるようになるといいます。その結果、現役時代に何を勉強しておけばいいのかという具体的な道筋が自然と立てられるようになるとされています(※2)。引退に対する恐れや不安を打ち明けられる環境を整えることも、選手が安心してキャリア形成に向き合うための前提条件です。
おわりに
アスリートのセカンドキャリアがつまずく背景には、スキル不足・金融リテラシーの欠如・プライドの壁・自己分析の甘さ・生活設計の見通し不足という5つの落とし穴があり、その根底にはアイデンティティ喪失という心理的な課題が横たわっています。JOCのアスナビやSCSCなどの引退後支援制度は着実に広がりを見せており、現役中からデュアルキャリアの視点で備えることが、失敗を防ぐ最も現実的な対策です。
競技に打ち込んだ時間は、そのまま「目標に向かって全力を注ぐ力」として社会でも活きる資産です。その力を引退後にも発揮するために、現役のうちから選択肢を広げ、自分の強みを言葉にする準備を始めることが、アスリート一人ひとりのセカンドキャリアを支える土台になります。
参照
(※1) PubMed Central (PMC) – A badge, a part of my history and also a root: A longitudinal qualitative exploration of the social identity model of identity change in retired elite athletes – PMC
(※2) アスミチ-アスリートとネクストキャリアを考えるサービスです – スポーツ庁で奮闘する元ラガーマンが感じた、若年層からのキャリア意識の重要性<後編>
(※3) スポーツコミュニティ株式会社 – – アスリートのセカンドキャリア失敗例と成功への道筋:引退後に待ち受ける5つの落とし穴と対策
(※4) The Sport Journal – Perceptions of Former Collegiate Athletes on Career Transition Programs in the NCAA
(※5) スポーツコミュニティ株式会社 – – アスリートの可能性は無限大–競技引退後も輝き続けるためのキャリア変革
(※6) プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES – アスリートのキャリアに新たな光を! 競技の枠を超えアスリートと共に考えるアスリートの未来
(※7) PubMed Central (PMC) – Sustainable Career Transitions and Mental Health Support in Elite Sport: A Systematic Review of Evidence and Practices
(※8) JOC – 日本オリンピック委員会 – アスリートのキャリア支援|アスリートサポート|JOC
(※9) スポーツ庁ホームページ – スポーツキャリアサポート支援事業:スポーツ庁
(※10) アスミチ-アスリートとネクストキャリアを考えるサービスです – スポーツ庁が進める「デュアルキャリア」を軸としたアスリートキャリア支援の必要性<前編>
